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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)8932号 判決

原告 受川作太郎

〈ほか一名〉

右原告両名訴訟代理人弁護士 横山国男

飯田伸一

岡田尚

林良二

被告 財団法人 癌研究会

右代表者理事 梶谷鐶

右訴訟代理人弁護士 高田利広

同 小海正勝

主文

一  被告は、原告受川作太郎に対し、金九三九万五九〇〇円及び内金二七〇万四一七二円に対する昭和五四年九月一三日から、内金六六九万一七二八円に対する昭和五五年九月二日から各支払済みまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

二  被告は、原告受川成幸に対し、金一六七五万六八〇二円及び内金三三七万三三四五円に対する昭和五四年九月一三日から、内金一三三八万三四五七円に対する昭和五五年九月二日から各支払済みまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、これを五分しその三を被告の負担とし、その余は原告らの負担とする。

五  この判決は、第一及び第二項に限り仮に執行する事ができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告受川作太郎に対し金三九八三万三〇六五円、同受川成幸に対し金六二〇二万〇二九〇円及び右各金員に対する昭和五四年九月一三日から各支払済みまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  右第1項につき仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は、原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 訴外亡受川ヒロ(以下「ヒロ」という。)は、大正七年七月一二日に出生した女性である。原告受川作太郎(以下「原告作太郎」という。)はヒロの夫であり、原告受川成幸(以下「原告成幸」という。)は、ヒロと原告作太郎の間の子である。そして、ヒロには、原告成幸の他には子はない。

(二) 被告は、癌及びその他の腫瘍に関する研究及び治療を行うことを目的とする財団法人であり、頭書肩書地において附属病院(以下「被告附属病院」という。)を経営している。

2  ヒロと被告の間の診療契約

ヒロは、その臀部に腫瘍(以下「本件腫瘍」という。)を生じたことから、昭和五四年四月一三日被告附属病院に来て、被告との間で、本件腫瘍の診察及び治療を目的とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結し、同月二三日被告付属病院に入院した。

3  本件手術及び麻酔事故の経緯

(一) 被告は、本件腫瘍に対する治療として、本件腫瘍の広範囲切除手術(以下「本件手術」という。)を行うことを決定し、同年五月九日執刀者を川口智義医師(以下「川口医師」という。)、補助者を荒井、網野両医師、麻酔医を浅山健医師(以下「浅山医師」という。)と定めて、次のとおり本件手術を実施した。

(二)(1) 本件手術においては、全身麻酔と局所麻酔が併用され、全身麻酔としては、笑気の吸入及び塩酸モルヒネの静脈注射が、局所麻酔としては、マーカイン(塩酸ブピバカイン製剤)が用いられた。

(2) 本件手術における笑気の吸入による全身麻酔は、気管内に気管内チューブを挿管し、これに全身麻酔器を接続する方法が採用された。全身麻酔器は、酸素ガスと笑気ガスとを混合して麻酔ガスとするための麻酔器部分と麻酔ガスを気管内チューブを介して肺内部に送るとともに同チューブを介して肺内部から呼気を排出するためのマンレイ型人工呼吸器部分からなっており、人工呼吸器部分の末端のY管と気管内チューブとは、コネクターの擦り合わせ(以下「本件擦り合わせ」という。)によって接続され、肺への酸素の供給は、全身麻酔器を通じて行われた。

(三)(1) 浅山医師は、同日午前八時一〇分ころヒロに対し、麻酔の前投薬を投与し、その後、麻酔器具の準備点検、麻酔剤の調合、ヒロの静脈の確保、ヒロの硬膜外腔への局所麻酔剤投薬用のカテーテルの設置等の麻酔施術の準備を行った。

(2) 浅山医師は、同日午前八時四〇分ころからヒロに対する麻酔の導入を行い、塩酸モルヒネの静脈注射、気管内チューブの挿管、気管内チューブと全身麻酔器の接続、麻酔ガスの投与、マーカインの硬膜外腔への注入等を行った。

(3) 川口医師は、同日午前九時三〇分ころ本件手術を開始し、本件腫瘍の摘出手術は、順調に進行した。本件手術は、手術部位が臀部であったためヒロを伏臥位にして行われた。

(4) 浅山医師は、同日午前一〇時五〇分ころヒロに対してマーカインの追加投与を行った後に手術室から退出したが、その際ヒロの血圧及び呼吸等のバイタルサインの監視について十分な引継を行わなかった。

(5) 川口医師らは、同日午前一一時一〇分ころまでに本件腫瘍の摘出等を終了し、手術創の縫合を開始したが、同二〇分ころ縫合中の手術創から出血した血液が暗赤色を呈した異常に気づき、看護婦に麻酔医の浅山医師を呼びにやらせた。

(6) 浅山医師は、手術室に戻り、原因を探索したところ、本件擦り合わせが緩んで隙間ができ、麻酔ガスがそこから漏出し、ヒロの肺に送られていないことを発見した。その後浅山医師らは、ヒロに対し、人工呼吸、心臓マッサージの施行、蘇生薬のエフェドリン投与等の蘇生術を行った。その間、同一一時三〇分ころには、ヒロの心臓の停止が確認された。その後右の蘇生術によりヒロの心拍は回復したが、ヒロは、右の間に生じた低酸素症による大脳酸欠により大脳に不可逆的病変をきたしていわゆる植物人間となり、爾後昏睡を続け、同年九月一二日全身衰弱による心不全のため死亡した。

4  因果関係

(一) ヒロは、本件手術中は、自発呼吸を抑制された上で、全身麻酔器の一部を成す人工呼吸器から気管内チューブを介して肺内部に供給される麻酔ガス中に含まれる酸素ガスを呼吸していたが、午前一一時五分から同二〇分ころまでの間に本件擦り合わせが緩んで隙間を生じ、同所から麻酔ガスが漏出して肺内部への麻酔ガスの供給が途絶したため低酸素症に陥り、この状態が継続したため、大脳に酸欠による不可逆的病変を生じて植物人間となった。

(二) ヒロは、植物人間になったことによる全身衰弱のために死亡した。

5  被告の責任

(一) 麻酔術は、低酸素症、心臓停止等の事故の発生の危険を伴うものであるから、麻酔医は、麻酔中の患者の全身状態を管理し、麻酔事故の発生を未然に防ぐとともに、一旦麻酔事故が発生したときは、迅速に蘇生措置を行い、患者の身体の麻痺、植物人間化等の後遺障害の発生を防止する注意義務があるところ、被告附属病院の医師らは、次のとおりこの注意義務に違反した。

(二) 浅山医師は、本件手術を担当する麻酔医として本件手術開始後その終了に至るまでの間、麻酔事故の発生を防止するとともに、麻酔事故が発生したときに迅速な対応をするために、ヒロの全身状態、血圧及び脈拍等のバイタルサインの監視を継続して行う注意義務があったにもかかわらずこれを怠り、同日午前一〇時五〇分に局所麻酔剤のマーカーインをヒロに追加投与した後、執刀医らにバイタルサインの監視の引継を十分に行わないまま他の手術のために本件の手術室を退出し、ヒロのバイタルサインの監視は、同一一時五分から一一時三〇分ころまでの間全くなされていなかった。このため、本件擦り合わせが緩んで第4項の経緯でヒロが低酸素症に陥ったことの発見が遅れ、ヒロの大脳に不可逆的病変が生じた。

(三) 大脳細胞は、酸素欠乏に弱く、酸欠状態が数分間以上継続すると不可逆的病変をきたすのであるから、医師は、患者が低酸素症に陥っている兆候を認めたときは、時を移さず直ちに人工呼吸及び心臓マッサージ等の蘇生措置を行い、大脳への血行による酸素の供給を速やかに回復させ、大脳に不可逆的な病変が生じることを防止する義務がある。しかるに、川口医師は、同日午前一一時二〇分ころ低酸素症の兆候である出血の暗赤色化を認めながら、看護婦に麻酔医の浅山医師を呼びに行かせただけで、同医師が手術室に戻るまでの間、ヒロに対して何らの蘇生措置も講じることなく時間を空費し、また、浅山医師も手術室に入室後直ちに蘇生措置を講じるべきであったのに時間を空費していずれも右注意義務に違反し、これによりヒロの大脳の酸欠状態が長引き、その不可逆的病変をもたらした。

6  債務不履行によるヒロの損害

(一) 被告の前項の注意義務違反は、本件診療契約の債務不履行となるから、被告は、これによりヒロに生じた次の損害を賠償する責任がある。

(二) 逸失利益

(1) ヒロは、昭和五四年九月一二日の死亡当時満六一歳であり、本件麻酔事故がなければ、爾後八年間は就労可能であった。

(2) ヒロは、入院当時まで主婦として家事労働に従事するとともに、昭和五三年六月以降入院時まで、原告成幸と共同して、東京都杉並区和泉三丁目三六番一一号において太陽書房の名称で書店を経営し、同書店の共同経営者として毎月同書店の一か月当たりの平均純益金六〇万円の二分の一に当たる金三〇万円の収入を得ており、その収入は、右死亡当時において昭和五二年度の賃金センサスによる新制大学卒業女子労働者の平均賃金である金三五六万三五〇〇円(決って支給する現金給与額金二二万五八〇〇円の一二か月分と年間賞与その他の特別給与額金八五万三九〇〇円の合計額)を下らないものであった。

(3) ヒロの逸失利益は、右の賃金のセンサスによる年収額から生活費に相当するその三割の金額を控除した金額に八年間分の新ホフマン係数である六・五八九を乗じた金一六四三万五九三一円である。

(三) 積極損害

(1) 入院中の付添人の日当、手数料、交通費

ヒロは、被告附属病院に入院した期間中に、別表1記載のとおり、神谷ミイ外五名を付添人として雇用し、その日当、手数料、交通費として、合計金五二〇万一九一〇円を支弁した。なお、ヒロの看護のためには、原告らの他に二名の付添人が必要であった。

(2) 付添人宿泊費

ヒロは、右入院期間中、付添人神谷ミイらのための宿泊費用として別表2記載のとおり、合計金三〇〇万五〇〇〇円を支弁した。

(3) 入院治療費の自己負担分

ヒロは、入院治療費の自己負担分として別表3記載のとおり、合計金二四五万九五七四円を支弁した。

(4) 入院諸雑費

(イ) ヒロは、入院中医療に関する諸雑費として、別表4記載のとおり、合計金六三万七五二〇円を支弁した。

(ロ) ヒロは、昭和五四年五月九日から同年九月一二日までの合計一二七日の入院期間中、右に明細を掲記したもののほか、少なくとも一日当たり金一〇〇〇円合計金一二万七〇〇〇円を入院諸雑費として支弁した。

(四) 慰藉料

(1) ヒロが蒙った苦痛に対する相当な慰藉料額は、金三〇〇〇万円を下らない。なお、本件においては、次の事情を参酌して制裁的慰藉料が認められるべきである。

(2) 一般に、医療は、高度の収益を生ずるものであること、医療過誤は常に医師、医師機関側の過失にのみ基づいて惹起されるものであり、交通事故等のように被害者と加害者の立場が入れ替わる余地がないこと及び医療過誤による被害は、被害者である患者の生命及び健康に重大な影響を及ぼすものであることを考慮し、損害賠償額の算定に当たっては、被害者の救済が重視されるべきである。

(3) 本件の麻酔事故は、担当の麻酔医が、手術中に手術室を離れるという、被告側の初歩的かつ重大な過失によって惹起された。

(4) 被告は、本件の麻酔事故が発生した後、本訴提起の前後を通じて、原告に対する責任を回避し、不誠実な態度に終始した。

(五) ヒロは、昭和五四年九月一二日死亡し、原告作太郎は、ヒロの右(二)ないし(四)の合計金五七八七万二三三五円の損害賠償債権のうち、昭和五五年法律第五一号による改正前の民法第九〇〇条第一号所定の三分の一の割合の相続分に相当する金一九二九万〇七七八円を、原告成幸は、同債権のうち、同号所定の三分の二の割合の相続分に相当する金三八五八万一五五六円をそれぞれ相続した。

7  原告らの固有の損害

(一) 本件の麻酔事故は、被告の被用者である医師の第5項の注意義務に違反した過失によって、被告の事業である医療行為に関して発生したものであるから、被告は、民法第七一一条、第七一五条第一項に基づいて、原告らに生じた以下の損害を賠償する責任がある。

(二) 固有の慰藉料

原告らが蒙った精神的苦痛に対する相当な慰藉料額は、各自金一五〇〇万円を下らない。なお、前項(四)のとおり、本件においては、制裁的慰藉料が認められるべきである。

(三) 葬祭費用

原告らは、ヒロの葬祭費用として、各自金三五万円を下らない金員を支出した。

(四) 弁護士費用

本訴の提起に当たり、原告訴訟代理人らに対し、弁護士費用として、原告作太郎は、金五一九万五六一七円を、原告成幸は、金八〇八万八七三四円を支払うことをそれぞれ約した。

(五) 以上のとおり、原告作太郎の固有の損害額は、右(二)ないし(四)のうちの同原告の分の合計金二〇五四万五六一七円、同成幸の固有の損害額は、右(二)ないし(四)のうちの同原告の分の合計金二三四三万八七三四円である。

8  結論

よって、ヒロから相続した債務不履行による損害賠償債権及び自己固有の不法行為による損害賠償債権による請求として、被告に対し、原告作太郎は、金三九八三万六三九五円、同成幸は、金六二〇二万〇二九〇円及び右各金員に対するヒロが死亡した日の翌日である昭和五四年九月一三日から支払済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  第1項の事実は認める。

2  第2項の事実は認める。

3  第3項の事実中浅山医師が手術室から退出した時刻及び退出の際バイタルサインの監視につき十分な引継をしなかったことは否認し、その余は認める。

4  第4項(一)の事実中本件擦り合わせの部分が緩んだ時刻及び麻酔ガスの供給が途絶したためにヒロが低酸素症に陥ったことは否認し、その余は認める。ヒロが低酸素症に陥った原因は、後記のとおり、局所麻酔剤として使用したマーカインの副作用であった。同(二)の事実は認める。

5  第5項の事実は否認する。浅山医師が、手術中に手術室を退出したことについては、やむをえない事情があった。

6  第6項の事実中(三)(3)の入院治療費の自己負担分中ヒロが別表3記載の金二四五万九五七四円の内、昭和五四年一〇月三〇日の金四〇八〇円を除く金二四五万五四九四円を負担したことは認め、その余は知らない。

7  第7項(一)(二)は争う。同(三)(四)の事実は知らない。

三  被告の主張

1  低酸素症の発生原因について

(一) ヒロに対して投与した麻酔剤等とその効力について

(1) 浅山医師は昭和五四年五月九日本件手術に当たりヒロに対し次のとおり、麻酔剤等を投与した。

(イ) 午前八時一〇分ころ前投薬として、硫酸アトロピン〇・三ミリグラムを筋肉注射し、ディアゼパム一〇ミリグラムを経口投与した。

(ロ) 午前八時四〇分ころ全身麻酔剤の塩酸モルヒネの静脈内点滴を開始し、同九時一〇分ころまでの間に合計五〇ミリグラムを注入した。

(ハ) 右の点滴開始後、午前八時四五分ころ、筋弛緩剤のディアルフェリン一五ミリグラムを気管内挿管のために静脈注射により投与し、更に笑気ガスと酸素の混合麻酔ガス(一分当たり笑気ガス四・五リットル、酸素二リットル)を吸入させてヒロの意識を取り除いた上で、気管内に気管内チューブを挿管し、以後引き続き手術中もこの麻酔ガスを気管内チューブを介して投与した。

(ニ) 塩酸ブピバカイン〇・五パーセントを含有するマーカインを、硬膜外腔に設けたカテーテルを通じて、午前八時四五分ころ二〇ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量一〇〇ミリグラム)を、同九時三〇分ころ五ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量二五ミリグラム)を、同一〇時五〇分ころ八ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量四〇ミリグラム)をそれぞれ投与した。

(2) 右の麻酔剤等のうち、自発呼吸を抑制する作用のあるものは、筋弛緩剤のディアルフェリン及び全身麻酔剤の塩酸モルヒネのみである。ところで、ディアルフェリンの自発呼吸抑制作用は、投与後二〇ないし四〇分で消失するものであり、塩酸モルヒネの血中濃度は、投与後一五〇ないし一八〇分で半減する。本件麻酔事故は、午前一一時以降に発生したものであるが、この時点においては、ディアルフェリンの自発呼吸抑制作用は消失しており、塩酸モルヒネの血中濃度も半減して完全無呼吸を招来する効力は消失し、数の少ない自発呼吸が再開していたはずである。しかも、本件擦り合わせがずれて出来た間隙部分には、高濃度の酸素を含む麻酔ガスが全身麻酔器から送られていたのであるから、再開した微弱な自発呼吸のもとにおいても、呼吸不全による低酸素症は発生し難い状況にあった。

(3) 以上により明らかなとおり、本件麻酔事故の原因は、右の擦り合わせに間隙が生じたこと以外に求めるべきであるが、笑気ガスには、呼吸器及び循環器に対する障害の作用は全くないから、その原因は、局所麻酔剤として投与したマーカインに求めざるをえない。

(二) マーカインの急性心臓毒性について

(1) 本件手術において使用した局所麻酔剤のマーカイン(塩酸ブピバカイン製剤)には、副作用として、その血中濃度が上昇すると、心筋の直接抑制及び心刺激伝導系の抑制をもたらし、臨床的には、心拍数及び心拍出量の低下並びに心停止を招来する急性心臓毒性がある。そして、この副作用が発生すると、患者の蘇生は困難である。

(2) 本件手術においては、午前一〇時五〇分頃にマーカイン八ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量四〇ミリグラム)の追加投与を行っており、投与後一五ないし二〇分でその血中濃度は最高となるが、本件麻酔事故の発生した時点と、右のマーカインの追加投与によりその血中濃度が最高となった時点が一致するから、本件麻酔事故によりヒロが低酸素症となった原因はマーカイン急性心臓毒性により、心拍数、心拍出量の低下及び心停止を来したことにより、血行による大脳への酸素供給が減少、途絶し、このために大脳に不可逆的な病変が生じたものである。

(3) そして、本件擦り合わせに間隙が生じたのは、心臓が停止したことにより肺の弾力性及び気道内圧が上昇し、本件擦り合わせ部分にかかる気圧が増大したためであった。

(4) 右の副作用は、本件手術後に、米国麻酔科学会機関誌昭和五四年一〇月号に掲載された巻頭論文により初めて明らかになったものであり、本件手術当時これを予見することはできなかった。従って、本件麻酔事故は、不可抗力に基づくものである。

2  ヒロの余命について

本件腫瘍は、悪性度の高い悪性線維性組織球腫であり、根治手術をしても、その患者の約半数が一ないし三年内に再発又は転移によって死亡している。しかも、本件腫瘍の大きさは、二倍手拳大(一五×一五×一〇センチメートル大)と巨大であり、本件手術時においては既に肉腫細胞は血管内に侵入しており、転移、再発の可能性は極めて高く、本件麻酔事故が起きなかったとしても、その予後は不良であったと考えられるから、本件麻酔事故が起きなかったとしても、ヒロの余命は一ないし三年間程度であった。この点は、損害額の算定に当たって参酌されるべきである。

四  被告の主張に対する原告の認否及び反論

1(一)  被告は、本件擦り合わせに間隙が生じたこととヒロの低酸素症との間の因果関係についての原告の主張を当初は自白しながら、昭和五八年八月二九日の第一五回口頭弁論期日において、右の自白を撤回し、低酸素症の原因として被告の主張第1項のとおり、マーカインの急性心臓毒性を主張するに至ったものであるが、原告は、右自白の撤回について異議がある。

(二) 第1項の事実中、(一)(1)は認める。同(2)は知らない。同(3)は争う。(二)(1)の内、マーカインに急性心臓毒性があることは認めるが、その内容は否認する。同(2)は、マーカインの追加投与の点を認め、その余は否認する。同(3)及び(4)は否認する。

(三) マーカインの急性心臓毒性による副作用は、マーカインを不注意により静脈の血管内に直接注入した場合に発生するものであるが、本件においては、マーカインは硬膜外腔に注入されたのであるから、マーカインの急性心臓毒性を低酸素症発生の原因とする被告の主張は失当である。

(四) 仮に、マーカインの急性心臓毒性による副作用が原因となってヒロの低酸素症が発生したとしても、大脳組織に不可逆的病変が発生する前に心臓マッサージ及び人工呼吸による適切な蘇生措置を講じ、酸素の供給を確保していれば、大脳組織の不可逆的病変によるヒロの植物人間化を回避することが可能であったというべきであるから、被告は、請求原因第5項の注意義務に違反した責任を免れることはできない。

2(一)  第2項の事実中、本件腫瘍が悪性線維性組織球腫であったことは認め、その余は否認する。

(二) 本件腫瘍は、本件手術により完全に摘出されており、手術後の検査によっても、転移、再発の兆候は発見されていない。従って、本件麻酔事故がなければ、ヒロは天寿を全うしていたものである。

第三証拠関係《省略》

理由

一  請求原因第1及び第2項の事実は当事者間に争いがない。

二  本件手術及び麻酔事故発生の経緯

1  次の事実は当事者間に争いがない。

(一)  被告は、本件腫瘍に対する治療として、本件手術を行うことを決定し、昭和五四年五月九日執刀者を川口医師補助者を荒井、網野両医師、麻酔医を浅山医師と定めて本件手術を実施した。

(二)(1)  本件手術においては、全身麻酔と局所麻酔が併用され、全身麻酔としては、笑気の吸入及び塩酸モルヒネの静脈注射が、局所麻酔としては、マーカイン(塩酸ブピバカイン製剤)による硬膜外麻酔が用いられた。

(2) 本件手術における笑気の吸入による全身麻酔は、気管内に気管内チューブを挿管し、これに全身麻酔器を接続する方法が採用された。全身麻酔器は、酸素ガスと笑気ガスとを混合して麻酔ガスとするための麻酔器部分と麻酔ガスを気管内チューブを介して肺内部に送るとともに同チューブを介して肺内部から呼気を排出するためのマンレイ型人工呼吸器部分からなっており人工呼吸器部分の末端のY管と気管内チューブとは、本件擦り合わせによって接続され、肺への酸素の供給は、全身麻酔器を通じて行われた。

(3) 浅山医師は、同日午前八時一〇分ころヒロに対し、麻酔の前投薬として、硫酸アトロビン〇・三ミリグラムを筋肉注射し、ディアゼパム一〇ミリグラムを経口投与した。そして、その後、麻酔器具の準備点検、麻酔剤の調合、ヒロの静脈の確保、ヒロの硬膜外腔への局所麻酔剤を投薬するためのカテーテルの設置等の麻酔施術の準備を行った。

(4) 浅山医師は、同日午前八時四〇分ころからヒロに対する麻酔の導入を開始し、次のとおりの投薬等の措置を行った。

(イ) 午前八時四〇分ころ全身麻酔剤の塩酸モルヒネの静脈内点滴を開始し、同九時一〇分ころまでの間に合計五〇ミリグラムを注入した。

(ロ) 右の点滴開始後、午前八時四五分ころ、筋弛緩剤のディアルフェリン一五ミリグラムを気管内挿管のために静脈注射により投与し、更に笑気ガスと酸素の混合麻酔ガス(一分当たり笑気ガス四・五リットル、酸素二リットル)を吸入させてヒロの意識を取り除いた上で、気管内に気管内チューブを挿管し、以後引き続き手術中もこの麻酔ガスを気管内チューブを介して投与した。

(ハ) 塩酸ブピバカイン〇・五パーセントを含有するマーカインを、硬膜外腔に設けたカテーテルを通じて午前八時四五分ころ二〇ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量一〇〇ミリグラム)、同九時三〇分ころ五ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量二五ミリグラム)をそれぞれ投与した。

(三)  川口医師は、同日午前九時三〇分ころ本件手術を開始し、本件腫瘍の摘出手術は、順調に進行した。本件手術は、手術部位が臀部であったためヒロを伏臥位にして行われた。

(四)  浅山医師は、同日午前一〇時五〇分ころヒロに対してマーカイン八ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量四〇ミリグラム)の追加投与を行った後に手術室から退出した。

(五)  川口医師らは、同日午前一一時一〇分ころまでに本件腫瘍の摘出等を終了し、手術創の縫合を開始したが、同二〇分ころ縫合中の手術創から出血した血液が暗赤色を呈する異常に気づき、看護婦に麻酔医の浅山医師を呼びにやらせた。

(六)  浅山医師は、手術室に戻り原因を探索したところ、本件擦り合わせが緩んで隙間ができ、麻酔ガスがそこから漏出し、ヒロの肺に送られていないことを発見した。その後浅山医師らは、ヒロに対し、人工呼吸、心臓マッサージの施行、蘇生薬のエフェドリンの投与等の蘇生術を行った。その間、同一一時三〇分ころには、ヒロの心臓の停止が確認された。その後右の蘇生術によりヒロの心拍は回復したが、ヒロは、右の間に生じた低酸素症による大脳酸欠により大脳に不可逆的病変をきたしていわゆる植物人間となり、爾後昏睡を続け、同年九月一二日全身衰弱による心不全のため死亡した。

以上の事実は当事者間に争いがない。

2  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(一)  浅山医師は、気管内に気管内チューブを挿管した後にこれと麻酔器の人工呼吸器部分の末端のY管部分とを本件擦り合わせによって接続し、その上から布絆創膏を用いて接続部分を固定した。

(二)  浅山医師は、手術部位からの出血量の減少を図るために、局所麻酔剤マーカインの血圧降下作用を利用してヒロの血圧を降下させる低血圧麻酔法を採用した。本件手術がなされた昭和五四年当時の知見では、マーカインの一回当たりの使用限度量は、成人の場合は、体重一キログラム当たり塩酸ブピバカインの総量二ミリグラムまでであり、ヒロの場合は、一回当たり約一〇九ミリグラムが使用限度量であった。そして、マーカインを注入した硬膜外腔の付近には、多数の血管が存在しており、血管内にマーカインを直接注入しなくても、ある程度の量は血管の外壁を介して血管内に吸収され血中にマーカインが混入することは避けられないが、浅山医師は、ヒロにマーカインを投与するに当たっては、その血中濃度の上昇を招かないように留意した。すなわち、同医師は、前示のとおり、塩酸ブピバカイン〇・五パーセントを含有するマーカインを午前八時四五分ころ二〇ミリリットル(塩酸ブピバカインの総量一〇〇ミリグラム)投与し、次いで同九時三〇分ころ五ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量二五ミリグラム)を、同一〇時五〇分ころ八ミリリットル(塩酸ブピバカイン総量四〇ミリグラム)を各追加投与したが、初回の投与量が限度量に近かったため追加投与に当たっては、前の投与後の時間経過によって血中のマーカインの濃度が低下した時点を選び、追加投与量についても、残存量との合計において右の限度量を超過しないように決定し、午前一〇時五〇分の追加投与に当たっては、そのころから血圧の上昇が開始したことによりマーカインの血中濃度が低下しつつあることを確認していた。

(三)  本件手術には前示の四名の医師のほかに二名の看護婦が立ち会い、その内の一名は摘出手術の執刀の介添をし他の一名は、麻酔医の介添等をしていた。

(四)  浅山医師は、本件手術の執刀開始後は、五分ないし一〇分間隔でヒロの血圧を測定し、午前一一時五分ころにも測定をしたが、その直後に被告附属病院内の他の手術の麻酔を行うために手術室を退出した。その際浅山医師は、ヒロの血圧の測定等のバイタルサインの監視についての引継をせず、執刀医にも退出することを告げなかった。そして、川口医師が同二〇分ころ縫合中の手術創からの出血色により異常に気づくまでの間、血圧等のバイタルサインの監視はなされていなかった。

(五)  午前一一時二〇分ころ川口医師は、ヒロの手術創からの出血色が暗赤色を呈したので低酸素症を疑い、手術室内に浅山医師が居るものと思って同医師に声を掛けたが同医師が在室していなかったので看護婦に同医師を呼びに行かせた。川口医師らは、浅山医師が手術室に戻るまでの間は、原因の探索及び蘇生の措置を講じなかった。

(六)  浅山医師は、手術室に戻ると、在室の医師らとともにヒロの体位を伏臥位から背臥位に直し、原因を探索したところ、麻酔器には異常は無かったが、布絆創膏の下で本件擦り合わせが緩み、麻酔ガスが漏出していることを発見した。

(七)  浅山医師らは、その後昇圧剤のエフェドリン二〇ミリグラムを投与し、川口医師らとともに、ヒロに対して人工呼吸及び心臓マッサージを行った。心臓マッサージを数回行うと、ヒロの心臓は蘇生し、鼓動を再開した。その後川口医師らは、ヒロをリカバリー室に移し、人工呼吸を行いながら手術創の縫合を行った。

(八)  浅山医師は午後一時ころヒロに対しリコニン(脳神経保護・賦活剤)、トキサプラム(麻酔からの覚醒剤)、マニトール及びハイドロコーチゾン(いずれも脳浮腫防止剤)を投与したが、意識は戻らなかった。

以上のとおり認められる。《証拠判断省略》

三  因果関係

ヒロの低酸素症の発生原因について、原告は、本件擦り合わせが緩んで間隙ができたため麻酔ガスが漏出し、肺に十分な酸素が供給されなかったためであると主張し、被告は、マーカインの副作用の急性心臓毒性により心拍数及び心拍出量が低下し、血行による酸素の供給が低下、途絶したためであると主張するので、この点について検討する。

1  原告は、原告主張の因果関係について、被告の自白が成立しており、その撤回には異議があると主張するので、まず、右自白の成否について検討する。

記録によれば、被告は、昭和五五年一〇月七日の第一回口頭弁論期日において、本件擦り合わせ部分に間隙ができていたこと及び本件手術の後ヒロが大脳酸欠(低酸素症)を惹起するに至ったことを認めたが、因果関係については原告の主張を否認し、爾後に昭和五八年八月二九日の第一五回口頭弁論期日においてマーカインの副作用である急性心臓毒性を低酸素症の原因として主張するに至ったことが明らかであり、原告主張の因果関係について被告が自白したものという余地はないから、原告の右主張は失当である。

2  《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  人工呼吸による吸入麻酔を行う際の麻酔事故としては麻酔回路がはずれることにより、肺に十分な酸素が供給されず、患者が呼吸不全、低酸素症に陥る症例が少なくない。

(二)  人工呼吸を用いる吸入麻酔を行う際に、自発呼吸が並存していると、人工呼吸の妨げとなり、十分な換気量を確保することが困難となる場合があるので、筋弛緩剤又は麻薬の投与により、人為的に自発呼吸を除去する例がある。

(三)  本件手術に用いられた麻酔剤等の中で、自発呼吸を抑制する効果のあるものは、午前八時四五分ころに投与された筋弛緩剤のディアルフェリン及び同四〇分ころから同九時一〇分ころまでの間に点滴により静脈に注射された塩酸モルヒネ(麻薬)であり、本件手術が開始された同九時三〇分の時点では、ヒロの自発呼吸は完全に除去抑制されていた。そしてディアルフェリンの自発呼吸抑制の効力の持続時間は、投与後二〇ないし四〇分間であるが、塩酸モルヒネの血中濃度が半減するには、一五〇ないし一八〇分程度の時間を要するため、午前一一時を経過した時点において、ディアルフェリンの効力は消失していたものの、塩酸モルヒネは、投与時の約二分の一程度の血中濃度を維持し、未だ呼吸中枢に対する自発呼吸抑制作用を完全に失うには至らず、仮に自発呼吸が再開していたとしても、数の少ない微弱なものでしかなかった。

(四)  本件擦り合わせ部分は、気管内チューブを挿管した後に麻酔器の人工呼吸器部分の末端のY管部分と接続されその上から布絆創膏で固定されていたため、緩みのために間隙を生じたものの、完全には脱落しなかった。従って、自発呼吸が十分に再開していれば、麻酔器から供給された麻酔ガスを自力で吸入することは可能ではあったが、麻酔ガス中の酸素の割合は、約三割に過ぎず、大気中の酸素の割合(大気中の酸素の割合が二割であることは公知の事実である。)と比較して格別に高濃度のものではなかった。

(五)  肺に十分な酸素が供給されないために呼吸不全の状態を生ずると、血液中には、酸素が減少して二酸化炭素が増大し、血液は暗赤色を呈するようになる。そして、酸欠状態が数分間程度継続すると、大脳に不可逆的な病変を生じ、一〇分間程度継続すると、心臓の鼓動も停止する。

以上のとおり認められる。《証拠判断省略》

そして、右認定事実に前述の本件手術及び麻酔事故発生の経緯に関する事実を総合すると、ヒロの塩酸モルヒネによる自発呼吸の抑制が残存していた午前一一時二〇分ころまでの間に、本件擦り合わせが緩んで間隙ができ、そこから麻酔ガスが漏出して麻酔器による人工呼吸を受けられなくなったため、ヒロは、低酸素症に陥り、大脳に不可逆的な病変を生じて植物人間となり、更に全身衰弱に陥って死亡したものと認めることができる。

3  なお、マーカインの急性心臓毒性について、付言する。

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(一)  スタンフォード大学医学部麻酔科助教授G・A・アルブライトは、米国麻酔科学会機関誌昭和五四年一〇月号の「エチドカイン又はブピバカインによる局所麻酔と心停止」との題名の巻頭論文において、マーカインの主成分であるブピバカインを静脈内に注射した場合の毒性は血管内に直接注射することなく注射部位から吸収された場合と比較して、二倍の毒性があり、これを誤って静脈内に注射すると、その量が臨床における典型的投与量であっても、副作用として、痙攣発作及び心臓血管系の虚脱症状(心停止等)が同時に生ずることがあり、この副作用が生ずると、患者の蘇生は困難となり、心臓が自動的に鼓動を回復するまでには四五分以上の心臓マッサージを要することを明らかにし、この副作用を解明する必要のあることを警告した。

(二)  米国連邦食品医薬品局は、その後の研究結果を承けて昭和五八年八月二三日製薬会社に対し、〇・七五パーセント濃度のブピバカインを産科麻酔に使用しないこと、ブピバカインを傍頸管麻酔及び静脈注射局所麻酔に使用しないこと、〇・二五パーセント及び〇・五パーセント濃度のブピバカインは、産科における硬膜外麻酔に用いてもかまわないが、予め試験量を用いて安全を確認することが望ましいことをブピバカインに表示すべきことを決定し、同年一〇月英国で同様の措置が採られ、昭和五九年一月には、我国においても厚生省が製薬会社に対し、同様の指示を行い、効能書にその旨が追加記載されたが、成人の一回当たりの使用限度量は従前と同様の体重一キログラム当たり二ミリグラムと記載されたままであった。

(三)  本件手術においては、ヒロの血管内にマーカインが直接注入ないし混入されたことはなかった。

以上のとおり認められる。これらの事実に前説示の本件手術の経緯を併せ考慮すれば、マーカインの副作用である急性心臓毒性は、マーカインが直接静脈内に注入された場合又は硬膜外麻酔であっても塩酸ブピバカイン〇・七五パーセントを含む高濃度のものを用いた場合に発生する危険があるものというべきところ、本件手術においては、塩酸ブピバカインの濃度が〇・五パーセントのマーカインを用いた硬膜外麻酔を行ったに過ぎず、マーカインがヒロの血管内に混入した形跡もなく、また、比較的短時間の心臓マッサージによりヒロの心臓が蘇生したことからすると、ヒロにマーカインの急性心臓毒性の副作用が生じたものと疑う余地はないというべきである。

なお、証人浅山健は、硬膜外腔に注入したマーカインが同所に存する血管の血管壁から吸収され、その血中濃度が上昇して、急性心臓毒性の副作用を惹起したことの可能性を指摘するが、前認定のように、浅山医師は、マーカインをヒロに投与するに当たっては、その血中濃度の上昇をきたさないように注意して投与の時期及び量を決定していた事実に照らし、右証言は、俄に採用することができない。

以上のとおり、ヒロに低酸素症を生じた原因はマーカインの急性心臓毒性にあるとする被告の主張は採用し難く、他に右2の因果関係についての認定を左右する証拠はない。

四  被告の責任

1(一)  《証拠省略》によれば、麻酔術は、ショック、呼吸不全、低酸素症、心停止等の麻酔事故の危険を伴うものであるから、手術中、麻酔医は、適切な麻酔管理を行って麻酔事故を未然に防止する措置を講じるとともに手術の終了ないし患者の麻酔からの覚醒までの間は、患者の血圧の測定等のバイタルサインの監視を行って全身状態を常時監視し、麻酔事故の兆候を迅速に把握してこれに対処する必要があるところ、ヒロに対しては、体位を伏臥位にして手術を行ったため、表情や顔色によって全身状態を把握することができなかったのであるから、バイタルサインの監視には一層の注意を払う必要があったということができる。

(二)  そして、《証拠省略》によれば、ヒロの体は、本件手術中、手術野である臀部を除き、滅菌された四角巾で覆われており、執刀医らは右手術野付近に集まっていたので、執刀医らが全身状態を把握することは困難な状況にあったことが明らかである。

2(一)  右に認定及び判断したところに前述した手術の経緯に関する事実を総合すると、浅山医師には、本件手術を担当する麻酔医として、麻酔事故の発生を防止するため及びこれが発生した場合にはその実態を迅速に把握して適切に対処するために、少なくとも本件手術が完了するまでの間は、手術室内にあって、継続的にヒロの血圧を測定する等のバイタルサインの監視を行う注意義務があったものというべきである。

(二)  しかるに、浅山医師は、本件手術の担当麻酔医としての右注意義務に違背し、午前一一時五分ころヒロの血圧を測定した後、血圧測定等のバイタルサインの監視についての引き継ぎをせず、執刀医らに告げることもなく被告附属病院における他の手術のために手術室を退出しその後本件擦り合わせが緩んでヒロが低酸素症に陥り、同二〇分ころに川口医師が出血の変色に気づくまでの間血圧測定等のバイタルサインの監視を怠ったために、ヒロに対する右麻酔事故の発見及びこれに対する対応が遅れ、ヒロをして低酸素症による大脳の不可逆的な病変を生じさせて植物人間となるに至らしめたものというべきである。

なお、被告は、浅山医師が手術室を退出したことにはやむをえない事情があったと主張するが、そのような事実を認めるに足りる証拠はない。

3  以上の認定及び判断によれば、被告には本件診療契約につきヒロに対する債務不履行による責任があり、また、被告は、原告らに対し、被告の被用者である浅山医師の被告の事業である診療行為に関する過失による不法行為責任(民法第七一一条、第七一五条)を免れないものというべきである。

五  ヒロの損害

本件診療契約の債務不履行によってヒロに生じた損害は次のとおりである。

1  逸失利益

(一)  ヒロの就労可能年数

(1) 《証拠省略》によれば、次のとおり認められる。

(イ) ヒロは、昭和四三年に子宮癌に罹患し、被告附属病院において臀部付近に放射線治療を受けて完治し爾後右子宮癌の転移、再発はなかったが、右放射線治療後約一〇年を経て、右放射線治療の影響で、臀部に悪性線維性組織球腫(本件腫瘍、別名「放射線照射後肉腫」)を生じた(本件腫瘍が悪性線維性組織球腫であったことは当事者間に争いがない。)。

(ロ) 悪性線維性組織球腫は、転移、再発の危険性のある悪性腫瘍であり、その摘出手術後の二年間の生存率は六割程度であり、二年以上の生存者のうちの約三分の一の者に転移、再発による死亡及び担癌生存が認められる。

(ハ) 本件腫瘍は、腫瘍細胞の形状が悪性線維性組織球腫としては非典型的なものであるが、本件手術による摘出時において、その大きさが一五×一〇×一五センチメートル大であり、腫瘍細胞の一部が血管内及び筋層に侵入しており、悪性の程度を、強、中、弱に三分類すれば、中程度に該当する。

(ニ) 本件腫瘍は、本件手術によりその周辺組織も含めて、完全に摘出され、本件手術後からヒロが死亡するまでに被告附属病院で行った検査において、転移及び再発の兆候は発見されなかった。

以上のとおり認められる。

右認定の事実によれば、本件腫瘍の転移、再発の危険を全く否定することはできないものの、右事実から直ちにその可能性及び本件腫瘍のヒロの余命に対する影響の程度を確知することはできず、他にこの点に関する確かな事実を認めるに足る証拠は存在しない。

(2) ヒロが大正七年七月一二日に出生した女子であることは当事者間に争いがなく、統計によればその死亡時の年齢(六一歳)の者の就労可能年数が八年間であることは公知の事実である。そして、本件腫瘍のヒロの就労可能年数に及ぼす影響を知ることができない以上その転移及び再発の抽象的な危険があることのみによってはヒロの就労可能年数について特段の事情があるとはいい難いから、ヒロの就労可能年数は、本件手術における麻酔事故(以下「本件麻酔事故」という。)がなければ、事故の発生時から八年間であったというべきである。

(二)  ヒロの収入

(1) 《証拠省略》によれば、ヒロは、本件麻酔事故の発生前は、主婦として家事労働に従事するかたわら、昭和五三年六月以降長男の原告成幸と共同して、東京都杉並区和泉三丁目三六番一一号において太陽書房の名称で書店を経営していたことが認められる。そして、右証拠中には同書店の一か月当たりの純益は平均金六〇万円であり、ヒロと原告成幸はこの純益を折半して取得していたとの原告の主張に副う部分もあるが、右証拠によっては、同書店の出資の状況を含む経営状態の全貌及びその経営に対するヒロの貢献の程度は必ずしも明らかではなく、未だヒロの確実な収入額を認めるに足りないというほかはない。そして、他に右主張に副う格別の証拠は存在しない。

(2) そこでヒロの収入については、統計上の数値を参酌してこれを推認すべきところ、昭和五四年度賃金センサスによる全女子労働者の平均賃金が年額金一七一万三八〇〇円であったことは公知の事実であり、ヒロの年収がこれを下回るものと認めるべき証拠はないから右金額を基礎としてヒロの逸失利益額を算定すべきである。

(三)  逸失利益額

そうすると、ヒロの逸失利益の額は、右年収額金一七一万三八〇〇円から生活費に相当する三割の金額を控除した金額に八年間分のライプニッツ係数である六・四六三を乗じた金七七五万三四〇二円である。

2  積極損害

(一)  付添人の日当、手数料、交通費

(1) 前認定のとおり、ヒロは植物人間となったのであるから、本件手術後の入院期間である昭和五四年五月一〇日から同年九月一二日まで合計一二六日間ヒロに付添の必要があったことは明らかであり、《証拠省略》によれば、ヒロは、昭和五四年五月二六日から同年七月五日まで及び同月二三日から同年八月一四日までの合計六四日間、訴外東洋看護婦家政婦紹介所から付添人として原田嘉久子、半田俊枝、二上公子の三名の派出を順次受け、別表1の4ないし6の各欄の記載のとおり、日当及び手数料として合計金三六万二九一〇円を支出したことが認められる。

(2) 原告は、右三名のほか、神谷ミイ、戸田うめの、船田美喜の三名が付添い、ヒロはその日当及び交通費として別表1の1ないし3の各欄の記載のとおり、合計金四八三万九〇〇〇円を支出したと主張し、《証拠省略》によれば、右主張のとおり支出された事実が窺われないではない。

しかし、右の主張はヒロに複数の付添人が必要であったことを前提とするものであるところ、本件全証拠を検討しても、複数の付添人を必要とする特別の事情があったことを認めるに足りる証拠はない(この点につき、原告本人は、ヒロを頻繁に寝返りをさせるために複数の付添人が必要であったと供述するが、このことのために常時複数の付添人が必要であったとはにわかに認め難い。)。しかも、右原告の主張によれば、これらの者の一日当たりの日当は、一名について金八〇〇〇円程度であったこととなるが、《証拠省略》によれば、神谷ミイはヒロの兄の亡神谷進の妻であり、船田美喜はヒロの姉であることが明らかであり、近親者の付添人にかかる高額の日当を支払うことが相当であったとは認め難い。そして、右支出額中、ヒロの右入院期間から東洋看護婦家政婦紹介所から派出を受けた付添人が付き添っていた期間を除いた合計六二日間について、右紹介所から付添人の派出を受けていたとすれば日当及び手数料として必要であった一日当たり金五三九〇円(この金額は、前示甲第五ないし第七号証の各一によって認められる。)をもって相当な損害というべきであり、その合計額は金三三万四一八〇円となる。

(3) 以上のとおり、原告が付添人の日当等として主張する損害額の内、被告の債務不履行と相当因果関係にあるのは、右(1)及び(2)の合計金六九万七〇九〇円であり、その余についての主張は失当である。

(二)  原告は、ヒロは(一)記載の付添人らのための宿泊費として、別表2記載のとおり、合計金三〇〇万五〇〇〇円を支出したと主張し、《証拠省略》には右支出がされた事実を窺わせる部分があるが、《証拠省略》によっては、付添人に宿泊をさせなければならない特別の事情があったものと認めることは困難であり、他にこれを認めるに足りる証拠はないから、仮に右の支出がなされたとしても、これを被告の債務不履行と相当因果関係にある損害ということはできず、原告の右主張は失当である。

(三)  ヒロが別表3記載のとおり(昭和五四年一〇月三〇日の金四〇八〇円を除く。)合計金二四五万五四九四円を入院治療費の自己負担分として支出したことは当事者間に争いがない。しかしながら、《証拠省略》によれば、本件麻酔事故がなかったとしても、ヒロには、手術後一か月間程度の入院加療が必要であったことが明らかであるから、右の支出額中、本件麻酔事故と相当因果関係にある損害に該当するのは、同年六月一一日以降の治療に対する合計金一五一万八三五三円の分に限られ、その余の分はこれに該当しないものというべきである。

なお、同年一〇月三〇日に支出したと原告が主張する金四〇八〇円は、《証拠省略》によれば、本件手術前の同年五月四日の診察料として訴外医療法人大成会に対して支出されたものであって、本件麻酔事故によるものではないことが明らかである。

(四)  入院諸雑費

(1) 原告は、ヒロは別表4の番号1ないし76のとおり入院諸雑費を支出したと主張するが、前認定のとおり本件麻酔事故がなかったとしても、ヒロは本件手術後一か月間程度の入院加療を必要としたのであるから、本件麻酔事故と相当因果関係にある損害に該当する入院諸雑費は、昭和五四年六月一一日以降の入院中に支出されたものに限られ、同年六月一〇日までの分である番号1ないし17はこれに該当しないというべきである。

(2) そこで、右番号18ないし76の支出に関する請求について検討するに、《証拠省略》によれば、同表の番号18ないし20、22、23、25ないし33、35、37ないし46、48、49、51ないし53、58ないし60、62ないし64、67ないし71、73の合計金一〇万六三四〇円の分はその支払先及び内容に徴して、本件麻酔事故により必要となった入院諸雑費ということができるが、その余はこれに該当するものと認めることが困難である。

(3) 原告は、ヒロが船田ミキに対し、同女がヒロのために立て替えた医療消耗品代金等の求償金として同表の番号77ないし81のとおり合計金三二万四二〇〇円を支出したと主張し、《証拠省略》にはヒロによる右支出を窺わせる部分及び記載があるが、船田ミキによるその支出先及びその支出の具体的内容を認めることができる証拠はないから、右証拠のみによっては、これがヒロの治療に必要な支出であったと認めるに足りないというほかはない。

(4) 原告は、入院期間中ヒロが別表4記載のものの他に少なくとも一日当たり金一〇〇〇円を入院雑費として支出したと主張するが、《証拠省略》中右主張に副う部分はその具体的な内容についての十分な言及を欠くものであってにわかに採用することができず、他にその支出を認めるに足りる証拠はない。

(5) 以上によれば、本件麻酔事故と相当因果関係にある損害というべき入院諸雑費は合計金一〇万六三四〇円である。

3  ヒロ本人の慰藉料

叙上の認定にかかるヒロの身上及び本件麻酔事故についての一切の事情を参酌すると、ヒロ本人が蒙った精神的苦痛に対する相当な慰藉料額は、入院期間中の分として金一〇〇万円、死亡に対する分として金九〇〇万円合計金一〇〇〇万円とするのが相当である。

なお、原告は、制裁的な慰藉料が認められるべきであると主張するが、本件麻酔事故の内容及びその特質をすべて考慮しても本件につき実損害の補填を超える特段の損害賠償を肯認すべき根拠があるものということができないから右主張は失当である。

4  以上によれば、本件診療契約の不履行により、ヒロが蒙った損害は、金二〇〇七万五一八五円であり、ヒロの死亡により、昭和五五年法律第五一号による改正前の民法第九〇〇条第一号により、原告作太郎は、その三分の一である金六六九万一七二八円の、同成幸は、その三分の二である金一三三八万三四五七円の各損害賠償債権を相続したものというべきである。

六  原告らの固有の損害

前示不法行為により原告らが蒙った固有の損害は、次のとおりである。

1  原告らの固有の慰藉料

前認定の本件麻酔事故の内容及びその事故の経緯等の一切の事情を参酌すると、ヒロの死亡により原告らが蒙った精神的苦痛に対する相当な慰藉料額は、各自金一五〇万円と認めるのが相当である。

なお、原告の制裁的な慰藉料の主張は、前同様の理由により原告らの固有の請求としても失当というべきである。

2  葬祭費用

《証拠省略》によれば、原告らは、ヒロの葬祭費用として各自金三五万円を下らない金員を支出したものと認められるから、原告らは、これにより各自金三五万円の損害を蒙ったものというべきである。

3  弁護士費用

《証拠省略》によれば、原告らは、原告ら訴訟代理人に本訴の提起及び追行を委任したうえ、相当額の報酬の支払を約したことが明らかであり、日本弁護士連合会報酬等基準規定及び弁論の全趣旨を参酌するとその相当額は、ヒロから相続した分を含む前認定の原告ら各自の損害金合計額の一割とするのが相当であり、その金額は、原告作太郎については、金八五万四一七二円、原告成幸については、金一五二万三三四五円である。

七  結論

以上によれば、被告は、損害賠償として、原告作太郎に対し金九三九万五九〇〇円(ヒロから相続した分が金六六九万一七二八円、固有の分が金二七〇万四一七二円、同成幸に対し金一六七五万六八〇二円(ヒロから相続した分が金一三三八万三四五七円、固有の分が金三三七万三三四五円)及びそれぞれこれに対する、ヒロから相続した分については被告への訴状の送達による催告の翌日であることが記録により明らかな昭和五五年九月二日から支払済みまで、原告らの固有の損害については、ヒロが死亡した日の翌日である昭和五四年九月一三日から支払済みまで各民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、原告らの請求は、右の限度で理由があるが、その余は失当である。よって、右の限度で原告の請求を認容してその余を棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を、仮執行の宣言について同法第一九六条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 橘勝治 裁判官 大淵武男 櫻井達朗)

〈以下省略〉

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